直江津の歴史調査

ネットで直江津の歴史を漁ってみた。
諸説ありどれが正しいのか怪しい部分もあるが、それらしいモノをかき集めてメモ。


7世紀末、越後国成立。頸城郡直江荘(現在の上越市国府付近)に国府が置かれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD


直江津の開港の時期は不明。
(おそらく、相当古い。直江津国府が置かれたのも港があったからではないかと私は考える。国府が置かれたので、直江津に港が作られた可能性もあり)


室町時代末に作られた「廻船式目」という今で言う海運法の中に「三津七湊(さんしんしちそう)」(いわゆる、10大港)の一つとして「越後今町湊」が載っている。
越後今町湊は今の直江津港のことで、日本海側にある港は大陸との交易の影響で大きく発展していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B4%A5%E4%B8%83%E6%B9%8A


また、南北朝時代室町時代初期に作られた「義経記(ぎけいき)」巻第七に
「『越後國直江の津は、北陸道の中途にて候へば、それより此方にては・・・」と直江の津(直江津)が登場する。
http://www.j-texts.com/sheet/kgikei.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E8%A8%98
http://proto.harisen.jp/minato1/naoetsu.htm


中世以前、現在の直江津港は「越後今町湊」または「直江の津」と呼ばれていたということか?


大河ドラマ天地人」で「府内湊」という名前で直江津が登場するが、どこからこの名称が出てきたのか不明。
大河ドラマのおかげで府内湊でググると大量のブログがヒットして、目的の情報が見つからない・・・)


戦国時代になると、京都に次ぐ人口6万人を有する都市として成長した。
http://www.pref.niigata.lg.jp/jouetsu_naoetsu/1200589237079.html


上杉謙信は青芋(あおそ)や米・塩の生産で莫大な利益を上げて軍資金としていた。


1751年の宝暦越後高田地震マグニチュード7.0〜7.4)


1951年に重要港湾に指定

果子乃季のザッハトルテその後

昨日の夕方、彼女からの電話

彼女「さっき、ケーキ届いたよ」

自分「おー、どうだった?美味しかった?」

彼女「ケーキがひっくり返ってぐちゃぐちゃになってた」

自分「え、マジで!?ちょっとクレームつける!!」

彼女「嘘、ちゃんとなってたよ」

自分「は?」

彼女「まだ食べてない、ご飯食べてから食べる」

自分「そか、そか」

彼女「お母さんに、まさかこれがバレンタインデーのお返しじゃないよね?って言われたけど・・・」

自分「え!?どういうこと?」

彼女「バレンタインデーのお返しって、普通は指輪とかネックレスとかじゃないのかなーって」

自分「普通、消え物の貰ったお返しは消え物でしょ?」

彼女「違いますよ。もっと勉強してください!」


そんなこんなで電話は切れた。


後から思い起こしてみると、文句しか言われてねぇ。
お礼の電話ではなく、文句言うために電話してきたのか!
ひ、ひどい!


電話の後、結婚した時にこの一家とうまくやっていけるか自信がなくなってきた。